2011/9/22 京都 flowing Karasuma にて
Live Painting : Ed TSUWAKI
現在、日本各地を巡るツアー中のmama!milk。
これから予定されている公演については下記リンクをご確認ください。
mama!milk の新作「Nude」そして発売後のライヴについて書かれたテキストを
ここに一部転載、ご紹介させていただきます。
インターネット上で全文を読めるものはリンクをそえてあります。
敬称は省略させていただきました。
書いてくださった著者の方々に感謝いたします。
ありがとうございます!
優れたサウンドトラックを聴いている時のような、
異空間へと誘うしなやかな詩情にドップリ浸ることが出来る最高の一枚!
recordshop Reconquista
9月15日リリースのmama!milkの新作『Nude』が物凄く良い。良過ぎて震えた。
いつもいいんだけど、今回は何か違う感じがする。
Newport
落ち着いた室内楽のような、
緊張感溢れる映画のサウンドトラックのような、
シンプルな構成ながらワイドレンジなヴァリエーションを聴かす彼らの集大成的1枚。
彼らがひとたび演奏を始めると、そこは時間も場所も遠く離れた異国の地へ。
かつてゴダールが、セットを使わずに未来都市を表現した
『アルファヴィル』というSF映画がありましたが、
そのような時代を超えたエキゾチシズムを感じてしまいます。
恵文社一乗寺店
もしもこの不安定さが「ほんとう」であるならば、まっすぐそれを見つめたいと思う。
嘘くさい落ち着きよりも、たとえ不安であるにせよ、
「ほんとう」を感じながら生きていたい。
そうするだけの強さを、ぼくらはきっと持っている……。
mama! milkの曲を聴くと、そんな想いがぼくの意識のなかに生まれる。
そして、さらに考える。
美しいというのは、きれいということではなく、「ほんとう」ということ。
「ほんとう」がむき出しになって、今、ここにある。
ぼくらが求めているのは、そういう美しさだ。
そして、それこそがNudeの美しさなのだ、と。
TEXT : 岡敦
「Intoxicate」最新号より
その時間感覚、ナラティブな世界観が持つテンションに、
聴き進めるうちに感覚は取り込まれていく。
そして、一種息苦しいような陶酔感の中に、聴く者の耳をおき、嬲(なぶ)っていく。
息苦しいのは当然だ。ここには吐息が横溢している。
以前、初めてジェレミー・スタイグのフルートを聴いたときのことを思い出す。
フルートという楽器を通り越して、直接「息」が音となって出てくる、
そのバイブレーションに圧倒された。
それはもうジャズという形式の音楽というよりは、
ジェレミー・スタイグ自身の語りであり、歌声のような印象すらあった。
しかもそこには何かしら意味を持つ歌詞を歌うといった、知的なものはなく、
もっと本能的な生がそのまま音として発せられている、そんな風に感じられた。
生駒祐子のアコーディオンも、同様のものを孕んでいる。
ここでの「息」は、本物の息ではなく、
アコーディオンの蛇腹が生み出すかりそめの息だ。
しかし、それは生駒の身体を使って、身体全体の動きで生み出される息でもある。
そう考えると、息の質量の理由がわかるというものだ。
そしてそれは、甘美な連想を惹き起こす。
TEXT : slow ear
選曲としても、旧作から、新曲、ふと挟まれるバッハの曲を含め、
彼らの現在進行形の姿と総括的な意志を見せたものになっている。
穏やかながらも、凛とした佇まいを保つ彼らの音楽は時折、
ミシェル・ルグランやアストル・ピアソラ、
エンニオ・モリコーネのサウンドトラックの一部に
見受けられるようなジェントルな馨りを纏いながらも、
昨今、隆盛するポスト・クラシカルと呼ばれる音楽との共振を感じさせる。
但し、この作品では、どちらかというと、
ポスト・クラシカルといったカテゴリー内でのアーティストの音がどうにも匿名的に、
尚且つ、署名が見えない音になってしまう傾向が多いのと比して、
mama!milkの試行の歴史が重ねられた結実としての確かな「"私"の音」が聴こえる。
加え、ライヴ録音という性格からか、確かな息遣いとともに、
現場でのインスピレーションに依拠した機転も伺え、
彼らがインタビューで触れていた「生々しさ」、
「刹那の瞬発力」という言葉も納得できる、
ふと既存のレールを外れるときに帯びる危うさにこそ、魅力がある作品ともいえる。
彼らの音楽はときに架空映画のサウンドトラック、
環境音楽的でディーセントなものとして捉えられている部分もあるが、
清水恒輔氏のコントラバスのディープな響き、
生駒祐子女史のアコーディオンの伸びやかな奏でには、
最初から翻訳され得ない現代音楽の体系を抜け出るものがある。
そこを抜け出た「会場」にはライヴ・ハウスだけではなく、
過去に彼らが実演の場として巡ってきた客船、旧き劇場、寺院、美術館、
喫茶店など、普通に生活を紡ぐあらゆる人たちの息吹が集う場所が浮かんで見える。
ノマドにフレキシブルに自分たちの音楽スタイルを堅守してきた彼らが
こういった形で続き、しっかり3.11以降の中での音楽の響きを再確認するように、
このような音をパッケージングしたという姿勢には喝采をおくりたい。
TEXT : 松浦達
mama!milk さま
前略
求道会館の"Dialogue for 'nude' "では素敵な時をありがとうございました。
私見ながら、mama!milkの音楽はそのユニークさもさることながら、
何か音楽の原点を思い起こさせるところがあります。
かつて音楽と「場」には密接な関係性がありました。
晩餐会のための音楽、舞踏のための音楽、花火鑑賞のための音楽…
音楽は特定の場を想定して作られましたし、
再生メディアのない時代、人はその場に行かなければ音楽を聴くことができず、
また場のサイズによって器楽編成も変更されました。
つまり音楽を持ち運びできない時代、あるいは音質補正の上で
PA再生できない時代には、「場」が音楽を規定するところ大であったわけで、
まさに最大の楽器は「ハコ」だったのです。
極めて個人的な見解ですが、mama!milkは自身の音楽に最適な場を求めて
旅をするユニットであるように思われます。
最適なアクースティック、あるいはアンビエントを求めて。
勿論アクースティックに関しては最終解はないのであって、
オーディエンスはその場その場で固有のそれを愉しむことができる、
そんなことを求道会館の2階席の一番奧で感じたのでした。
敢えてあの空間に陣取ったのも(建物の構造上たとえ演奏風景が見えなくとも)、
2階桟敷席でクラシックのコンサートを聴くように
立ち昇る音のフレグランスを感じたいからで、そしてそれは正解でした。
mama!milkの曲たちは、それらを聴く場によって違った表情を見せてくれます。
また場もそれぞれ音たちに新たな色彩を与えてくれます。
その意味では法然院に行けなかったのは非常に残念でした。
できれば求道会館での"Duologue"も聴きたかったのですが。
mama!milkの音楽はアクースティックまで含めた総体として
受け取るべきものと勝手に解釈するならば、
知る限り現代の日本においてこのような音楽的態度をとる非クラシック系ユニットは
稀少で、"nude"が秀逸なのもCDという周波数帯域の限定された
メディアの中で自覚的に(あるいはそれを逆手にとって)
音響的悦楽を聴く人に与えるという部分が大きいのではないでしょうか。
実際これを聴くとLP聴いているような錯覚に陥る時がありますので。
ではこの秋が清水さんと生駒さんにとって実り多いものでありますよう。
敬具
今田 統之